以前、保有銘柄であるJT(日本たばこ産業)について、高配当・財務優良な企業として記事を書きました。今回はその続きとして、「ESG投資の観点からは、JTのようなたばこ企業はどう扱われるのか」という話と、そこから広がる少し大きな話をしてみたいと思います。
たばこは、ESGの世界では「業種ごと除外」される側
結論から言うと、ESGの世界でたばこは厳しい立場にあります。企業ごとの環境・社会・ガバナンスを個別に評価する以前に、業種そのものを投資対象から機械的に外す「ネガティブスクリーニング」の代表格だからです。アルコール、ギャンブル、武器などと並ぶ、いわゆる「シン・ストック(罪ある株)」の筆頭格です。
象徴的なのがノルウェーの政府年金基金です。世界最大級のこの政府系ファンドは2010年以降、たばこ製造企業を投資対象から全面除外しています。どれだけ財務が健全で、株主還元が手厚く、ガバナンスが整っていても、業種という理由だけで対象外になる。EUの気候変動対応型株価指数の規制でも、たばこ事業から収益を得る企業を機械的に除外することが義務付けられています。
受動喫煙という外部不経済や、国際的な公衆衛生上の規制対象になっていることを考えれば、この扱いには相応の理由があります。ここは素直に認めなければなりません。
それでも、嗜好品を一律に「悪」と決めつけることには違和感がある
ただ、個人的には(私自身はタバコもお酒も嗜みませんが)、嗜好品を一律に「悪」と断じてしまう風潮には距離を置きたいと思っています。
一見すると不健康、非効率に見えるものが、実は人間社会に彩りを与えている場面は少なくありません。お酒の席の何気ない雑談が信頼関係を築くきっかけになったり、タバコ休憩が緊張をほぐして本音を引き出す場になったり。文化やファッション、儀礼的なものの多くは、「コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスでは測れない余白」にこそ価値が宿っています。あらゆるものを投入対効果だけで評価する物差しを当てはめると、こうした価値は構造的に過小評価されてしまいます。
重要なのは、「嗜好品が文化的・精神的な価値をもたらす」ことと、「嗜好品が公衆衛生上のコストを生んでいる」ことは、両立する事実だという点です。ESGやたばこ規制のような制度は、本来この両者のバランスをどう取るかという社会的な合意形成の道具であって、個人の嗜みそのものを断罪する装置ではないはずです。問題は、制度や世の中の風潮が、この線引きを雑に行って、文化的な価値まで一緒くたに否定してしまうことだと思っています。
AIの時代に、「非効率の価値」はむしろ重みを増す
ここでもう一歩、話を広げてみます。AIが処理能力や情報処理の速度で人間を凌駕しつつある時代、人間はその土俵で張り合おうとしても分が悪くなる一方です。だとすれば、「非効率だけど意味がある」「数値化できないけれど豊かさがある」という領域にこそ、人間らしさの価値がより色濃く残っていくのではないかと思います。
農業に置き換えると、わかりやすいかもしれません。効率だけを突き詰めるのではなく、その土地の歴史や季節の手触り、収穫を祝う行事といった『非効率な部分』にこそ、その土地で米を作り続ける意味が宿っています。
椎名林檎さんの楽曲「罪と罰」には、特定の煙草の銘柄の香りが、過ぎ去った季節や遠い記憶を呼び覚ます、という情景を描いた一節があります。嗅覚という極めて個人的な感覚を通じて、タバコの香りが一瞬にして過去の記憶や心情を呼び起こす様が、印象的な言葉選びで表現されています。ESGの物差しでは取りこぼされてしまうタバコの香りが、こうして人間ドラマを描く楽曲の題材となり、一つの文化として根付いている。これもまた、数値化できない価値の一例だと思います。
投資家として、この矛盾とどう向き合うか
面白いのは、このESGからの除外が、皮肉にもJTのような企業の投資妙味を生んでいる側面があることです。ESG投資家が構造的に手を出しにくい業種であるがゆえに株価が割安に放置されやすく、結果として配当利回りが高く見える。ノルウェー基金自身も、たばこ・武器の除外によって運用リターンが押し下げられたと試算を公表しており、「倫理的な除外にはコストが伴う」ことを認めています。
ESGスコアという一つの物差しだけで企業の価値を判断すると、こうした人間社会の彩りや、物差しの外側にある価値を見落とすことになりかねません。JTを保有するということは、私にとって「ESG的に評価されない構造だからこそ生まれている割安性」を理解しながら、同時に「嗜好品が持つ文化的な価値を一律に否定しない」という自分なりの価値観を、投資というかたちで表明することでもあると思っています。看板やスコアに頼らず、自分の頭で価値を見極める。これもまた、農耕民族的な投資の一つの形だと考えています。

