前回、ESG投資の下火について書きましたが、その後に自分でも気になった論点があります。「ESG」という言葉自体は最近のものですが、その”発想”は本当に新しいものなのか、ということです。改めて考えてみると、日本には古くから近江商人の「三方よし」や、住友の「自利利他公私一如」、「浮利を追わず」といった考え方があります。今回はこの「昔からあった発想」と「今のESG」の関係を整理してみます。
三方よし、住友の思想は「先取りしたESG」だった
近江商人の「三方よし」は、売り手・買い手だけでなく「世間」まで含めて取引の持続可能性を考える発想です。売り手と買い手だけが得をして、世間に迷惑をかけるような商売は長続きしない、という経験則がこの言葉に凝縮されています。
住友の「自利利他公私一如」も同じ構造をしています。自社の利益(自利)と社会の利益(他利)を対立するものと考えず、一体のものとして捉える。別子銅山の支配人だった伊庭貞剛が遺した「浮利を追わず」という言葉も、目先の儲け話に飛びつかず、事業の本質的な長期性を重んじる姿勢を表しています。これはまさに、今の投資の世界で言う「ESG」、あるいはもっと手前にある「サステナビリティ」の考え方そのものです。
実際、この経営思想が単なるお題目でなかったことは、数字にも表れています。帝国データバンクの調査によれば、日本には創業100年以上の企業が4万社以上、200年以上でも1,000社を超えて存在するとされ、これは世界的に見ても突出した数字です。長く続いている企業が多いということは、こうした発想が実際に”機能してきた”ことの一つの証拠だと思います。
ただし、日本だけの専売特許ではない
ここで一つ、冷静に見ておきたい点があります。この種の発想は、日本固有のものではないということです。
- イギリスのクエーカー教徒系企業(キャドバリーやバークレイズの源流など)は、宗教的な倫理観から、従業員の福利厚生や公正な取引を重視する経営を19世紀から実践していました。
- アメリカのジョンソン・エンド・ジョンソンは、1943年に制定した「我が信条(Our Credo)」の中で、株主よりも先に顧客・従業員・地域社会への責任を明記しています。これは今の「マルチステークホルダー経営」の先駆けと言われています。
- **ドイツのミッテルシュタント(中堅・中小企業群)**も、短期的な株主還元よりも従業員の技能承継や地域との関係を重視する、家族経営的な長期志向で知られています。これがドイツ製造業の底力の一因だとも言われます。
つまり、「長く存続している企業は、結果的に顧客・従業員・地域社会への配慮を経営に組み込んでいる」という経験則は、文化や宗教的背景が違っても、世界各地で独立に発見されてきた”経営の知恵”だと考えた方が正確だと思います。三方よしは素晴らしい思想ですが、「日本だけが特別に道徳的だった」という話ではありません。
本当の違いは、国ではなく「時代」にある
では、何が違うのか。私は、地域性よりも時代の違いの方が本質的だと考えています。
三方よしやクエーカーの倫理観は、創業家・経営者個人の人格や信条に根ざした、いわば暗黙知でした。測定も開示も、他社との比較もされません。「あの店は信用できる」という評判や、地域社会との長年の関係性の中に、溶け込むようにして存在していたものです。
一方、今のESGが目指しているのは、その暗黙知を定量化・標準化し、会ったこともない経営者の会社を、赤の他人である投資家が比較評価できる”共通言語”に作り変えることです。これ自体は、グローバルに資金を動かす上では必要な進歩だと思います。顔の見える取引相手としか商売をしないなら評判だけで十分ですが、世界中の見知らぬ企業に投資するなら、何らかの指標がないと判断のしようがありません。
指標化した瞬間に、こぼれ落ちるもの
ただし、ここに落とし穴もあります。暗黙知を指標に翻訳した瞬間、「指標さえ満たせば中身はどうでもいい」という本末転倒が起きやすくなるのです。これこそが、前回の記事で触れた「見せかけのESG(グリーンウォッシュ)」が生まれる土壌そのものだと思います。
近江商人や伊庭貞剛が今の時代に生きていたら、おそらくESGスコアを稼ぐための対応などはせず、やはり本気で「世間」を見ながら商売をしていたはずです。彼らにとって三方よしは、評価されるための手段ではなく、商売を長続きさせるための当たり前の作法だったからです。
田畑で言えば、「地域の人たちのつながりや代々受け継いだ土地と水を、今だけでなく次の代のためにも守る」という、言葉にしなくても体に染み付いている作法に近いものです。これをあえて「農地環境診断スコア」のような外形的な基準に落とし込もうとすると、数値には表れない何かが必ずこぼれ落ちます。実際の農地づくりは、数値だけでは測れない先達や地域のつながり、経験と勘の蓄積でできているからです。今の制度化されたESGに、どこか物足りなさを感じるとすれば、その正体はおそらくここにあります。
結論:ESGは「新しい発明」ではなく「翻訳の試み」
今回の結論として、ESGという考え方は、決して新しい発明ではないと思っています。むしろ、三方よしや自利利他、クエーカーの倫理観、ドイツの家族経営といった、世界各地にもともと存在していた”長続きする経営の知恵”を、グローバルな投資の世界で使える共通言語に翻訳しようとする試みだと捉えるべきです。
翻訳である以上、どうしても失われるニュアンスが出てきます。大事なのは、その翻訳された指標(ESGスコア)を鵜呑みにすることではなく、指標の向こう側にある「本当にこの企業は三方よしを実践しているか」を、自分の目で確かめようとする姿勢だと思います。これもまた、農耕民族的な投資の一つの形だと考えています。
蛇足にはなりますが、保有しているJT株はESG的にどうなのか?という点については別記事にて・・・

